
フルタ丸・梟の服を観劇して
スタッフの塚本です。
TPAMのイベントの一つとして参加していた劇団フルタ丸の公演を観劇しました。
日常の忙しさにかまけて「演劇を観る」という事も、ここ最近してなかったなぁとふと思いたち日曜の最終公演に足を運びました。
フルタ丸さん達はこれまで何度とALCを会場として利用して下さってる事もあり、舞台演出に既存の備品や空間を生かした演劇の内容となっていて、その事がとても良かったです。ALCの扉は防音なので、少々扱いづらく日常のカフェを運営する上では厄介なところが沢山あります(笑)
でも年に数回でも演劇の会場として利用してくださる方がいると空間がガラっと変わるんですね。フルタ丸さん達の演劇によってALCという場が再解釈され、新しい発見がありとても刺激的なものとなりました。
話は少しズレるかもしれませんが最近、設計事務所がまちに開くという考え方をアップデートしたいなとおもっています。設計事務所がライブラリーアンドカフェを運営していく事が果たしてどんな良い事を生むのか?改めてそんな問いと向き合いながら、日々この場所で色々な実験を行なっていきたいと思います。
改めてフルタ丸の皆様、会場に来られたお客様ありがとうございました!
次回も楽しみにしています。(塚本安優実)
「梟の服」を観て
劇団フルタ丸の「梟の服」は、なんてことのない芝居に見える。思想的でも不条理でもスペクタクルでも言葉に長けているわけでもない。もちろんまだ見ぬ世界を開拓しているわけでもない。それはむしろちょっと眼を細める必要があるが松竹新喜劇に近い。が、そこまで徹底してバカにな りきり、落差を持って笑わせようとしているようにも見えない。ちょっとクセのある二人の店員 がダサい客をドタバタしながら自我に目覚めさせる、というストーリーはあるにせよ、先に書いたように観客を強い世界に誘うわけでもない。何か足りない。どこまで行ってもダサい客を演じ るフルタ氏の体型のように、或る種の評価を避けるようにユルさに留まり続ける。 さて、差別化を常に問われる現代において、数多の先達が競って先鋭化する世界の中で、自ら突出することを拒み、ただダサい領域にとどまる理由はなんだろう?果たして意図しているのか?まさか気がつかないのか?気がつかないフリをしてる?これがフルタ氏の戦略だとすると?みんなが前衛を志向して志向して志向した結果一回りした世界では新しく見える、このことを確信して徹 底してダサさに留まることを選んだ戦略の結果だとすると。こう考えると、フルタ氏の体型も、髪型も、セリフも何もかもそのダサさがスリリングに見えてくるかもしれない。いつ、どこで、前衛に踏み外すのだろう?逆説的な期待が高まってくる。(飯田善彦)